2004年Andy Aledortによるインタビュー
Guitar World 2004年11月号より引用
Q:ジョニー、"Johnny Winter"リリース後にあなたがいかに名声を極めたかを語るのはそう難しくもありませんが、「発見」される以前のあなたやバンドの生活はどうだったんですか?
Johnny(以下J):ほとんど飢え死にしかけてたよ!はじめトミー(シャノン)とレッド("アンクル"ジョー・ターナー)と俺がヒューストンで一緒になったときは、ポップ・ミュージック・トップ40ばかり演奏してたんでまずまずの生活だったんだ。客が聴きたいと思うものなら何でも演奏できた。当時はいいクラブでの仕事を得るためには何でも演奏できなきゃ駄目だったからね。よくないクラブでの仕事だって同じさ!時たまブルースをこっそり持ち込んだりした。みなラジオで聴いて知っていたから"Stormy Monday"(T-ボーン・ウォーカーのクラシック)とかをね。でも俺が知る限りブルースを演奏しても金にはならなかった。俺をブルースでやって行くように説得したのはレッドだったんだ。
Q:ヒューストンのブルース・シーンはどうでした?
J:オースチンの方が良かったんでそっちへ移って、ヴァルカン・ガス・カンパニーというところで演奏し始めたんだ。古いホテルだったところで、バーだの階段だのすべてがくたびれていて、かなりヤバイところだったな!そこで"Progressive Blues Experiment"も録音した。2トラックのレコーダーだけ使ってライヴでね。2週間に1度そこで演奏して、ヒューストンのラヴ・ストリート・ライト・サーカスとかフィールグッド・マシーンとかでも定期的に演奏していた。そのころ俺たちは"It"s My Own Fault"("The Progressive Blues Experiment"と"Second Winter"レガシー・エディションのボーナスCD"Live At Loyal Albert Hall"に収録)や"I Got Love If You Want It"("Progressive~")、"Good Morning Little Schoolgirl"("Johnny Winter")といったブルース曲のオリジナルなアレンジに焦点を合わせていた。でもトップ40を演奏して普通の生活を維持する状態からほとんど何も稼げない状態に足を突っ込んでいたわけだ。
Q:トップ40からブルースに変わった時のファンの反応はどうでした?
Uncle John Turner(以下U):多くのファンは困惑してたな。首を横に振って、ジョニーにキャリアが台無しになるぜって言っていた。俺たちは満員のクラブを5分で空にできたんだぜ!はっきりしているのは俺たちだけが自分たちがやっていることを本気で信じていたってことだ。『ローリング・ストーン』の記事が出るまでは飢えていたさ。記事が出たあとは空っぽだった同じクラブがキャパ一杯になってドアの外まで列ができたけどな。
J:俺たちがソウル(リズム・アンド・ブルース)をやるのには慣れていたけど、ブルース・ロックやヘンドリクスの曲をやり始めたらみんな引いちまった!アンクが俺にブルースやブルースに基づいた音楽の演奏を追及するように励ましてくれた人物だというのはホントだ。クリームやヘンドリクスの成功が道を拓いたとヤツは考えていたからね。ヤツが正しかったとわかったとき、とても気分が良かったよ。
Tommy Shannon(以下T):俺たちはまさに一攫千金物語だった。文字通り一晩で床の上で寝る生活から邸宅に住むような生活になったんだ。一晩5000ドルの契約で演奏したんだ。
Q:ジョニー、スティーヴ・ポールがオースチンまであなたを追いかけて行って、あなたはレコード契約のために単身ニューヨークへやって来ましたね。ニューヨークでの最初の晩にフィルモア・イーストでマイク・ブルームフィールド、アル・クーパーと、B.B.キングのクラシック"It’s My Own Fault"で共演しました(Al Kooper & Mike Bloomfield "Fillmore East-The Lost Concert tapes"(Sony/legacy)に収録)。あの時のことは覚えていますか?
J:マイクは古い友人で俺のことをいつも良く言ってくれていたんだ。彼と演奏したあとにシーン・クラブへ行ってジミ・ヘンドリクスと演奏した日を覚えている。
U:ジョニーがニューヨークへ行って真っ先にやったことのひとつはジミ・ヘンドリクスに会うことで、ギター対スライドのシリアスなバトルをさっそくやってた。ジミは周辺に自分ほどできるヤツを知らなかったから、ビビってたな。
J:数日のうちにスティーヴはいくつかのレーベルと交渉を始め、アトランティックとCBSの間で「競り合い」になった。俺が提示された30万ドルで手を打ってCBSとやっていくことにしたんで勝負がついたんだ。
U:俺たちは下積みを覚悟していたんだが、まさに「シンデレラ」物語で24時間で床の上で寝るから邸宅で眠る生活になった。下積みなどなくて、ほとんど最初っからトップにいたんだ。
Q:1969年1月の末にバンドはナッシュビルのCBSスタジオへ行き、ジョニーがプロデューサの椅子に座って、ベースにウィリー・ディクスン、ハーモニカにウォルター"シェイキー"ホートンといったブルースの権威と一緒にデビュー作を録音しましたね。このレコードには何か具体的な目的があったのですか?
J:"Johnny Winter"では、いくつかのオリジナル曲とグッドなブルース曲のリアレンジメントで、できる限りベストなブルースを世に出したかったんだ。バンドが一緒に演奏するという方法には基本的にとても満足している。
U:ヘンドリクスのような人たちと演奏を始めて、俺たち自身の音楽的なアプローチを見つけなければならないということを知ったんだ。周囲の数多の才能の中で、俺たちは目立たねばならないし、人と違っていなければならないし、しかも俺たち自身でなくてはならない。そのときジョニーの並外れた才能に乗っかってアイディアを表現していく俺たちなりの方法を展開し始めたんだ。俺たちはヘンドリクスやクリームのようになることは選択しなかったし、それはジョニーがそう望んでいたからだ。自分のルーツを何か新しいものに応用しようとしていたんだな。
Q:ジョニー、あなたの百科事典的なブルース・ギターの知識は"Johnny Winter"のリイッシューに十分表現されていますね。例えば、オープン・チューニングのアコースティック・ギター("Dallas"、ロバート・ジョンソンの"When You Got A Good Friend")、そしてハードに・ドライヴするエレクトリック・スライド("Country Girl")。そしてさらに"Two Steps From The Blues"(ボビー"ブルー"ブランドの名作)。これはヴォーカリストとしてのあなたの信じられないようなレンジを示すハイライトですね。
J:"Two Steps"は好きだな。俺のずっとお気に入りの曲のうちの一つだ。これらの曲をスタジオでまとめたら、とても自然にしっくりした。オリジナルの二つ、"I’m Yours And I’m Hers"と"Leland Mississippi Blues"はアルバムのレコーディング中に浮かんだ曲だ。アレンジを何とかやっつけて、曲を録音した。あんな風にシンプルにね。
Q:あなたのギター・スタイルで耳に残るのは激しい速さと正確さで、例えば、シングル・ノートの傑作"Be Careful With A Fool"がありますし、サニー・ボーイ・ウィリアムスンの"Good Morning Little Schoolgirl"のような突き進むテイクもありますね。
J:早弾きは俺の性に合っているように思うし、やりたいときはいつでもできるようにしたかった。実は自然にそうなったんだ。俺の頭の中に聴こえるもの以外に何か特殊なことをしようと努めていたのではないんだ。
Q:"Johnny Winter"、"Second Winter"、"Live At Royal Albert Hall"のトラックの多くはインプロヴァイザーとしてのジョニーの才能を明らかにしています。ジョン・コルトレーン、チャーリー・パーカーといったサックスフォン奏者のように、執拗な前への推進力と勢いをもって、次から次へと完璧に弾きこなされたリフの流れを生み出しながら、ジョニーはとどまることのないアイディアの泉を見せてくれました。
エドガー(以下E):その通りだね。ジョニーの流麗なところはモダンジャズの演奏者を思わせるな。ジョニーの演奏にはギター奏者としての彼特有の絶え間のないクオリティやインセンシティがあるね。ジョニーは決して手を休めることはない。それは残されたスペースに対して尽きることなく流れていく長いタペストリーのようだ。ジョニーのソロは、たとえたくさんの音があったとしても、彼固有の構成のセンスでアイディアが結びつけられている。ブルースやロックのギターであんなふうに演奏した者はかつていなかった。
J:俺たちは当時は誰もやっていなかったような「熱狂的な」エネルギーをブルースに持ち込もうとしていたんだ。良い例は"Live At Royal Albert Hall"の"Tell The Truth"のライヴ・ヴァージョンで、実にすばらしく-とてもハイ・エネルギーだ。エドガーと俺が若かったころやっていたソウル/R&Bタイプのマテリアルの代表作だな。
Q:"Johnny Winter"を今どう思っていますか?
J:俺の最初の「本物の」レコードで、とても誇りに思っているよ。アンクとトミーとのオリジナル・ラインアップはずっとお気に入りのバンドで、エドガーのサックス、ピアノ、アレンジメントでの貢献も素晴らしかった。
T:俺は"Johnny Winter"をとても誇りにしている。何よりもまずそれによってジョニーは世に出たわけだし、リリースされてからは彼の素晴らしさを人々に知らしめるからね。忘れてはいけない過去の偉大な財産のようなものさ。
U:実際俺たちは時を経るにつれこの最初のレコードをますます高く評価するようになっている。懸命な努力の結果、俺たちは正しかったと実感し、最初のレコードで努力し続けたすべてを成し遂げたのはすばらしいことだった。俺たちは目標を定め、それを達成した。ほとんどのすべてのミュージシャンが道を間違えた骨折りをしているのに「テキサスから来た田舎者」が大成功を収めたんだ。俺たちに何か結び付けられるようなものがあって、若い才能のある男と一緒だったことを誇りに思う。すばらしい、信じられないような経験だった。
Q:"Johnny Winter"がリリースされたあと何が起こりましたか?
U:アルバムを録音したあと、スティーヴ・ポールはレコードが出回るまで俺たちを外に出さず、とてもよく構成され計画されたプロモーションを練っていた。仕事が始まると、俺たちは週3回ぐらいは演奏したな。スチーヴは2万ドルとか3万ドルとか当時では大金をこのプロジェクトの推進のために借りていて、それで俺たちは幾分稼ぐようになるまで食べていたんだ。最初の仕事は5月か6月までなく、それは大きなセミノール族のインディアン保留地での演奏だった。そしたらあの年の夏はたまたまポップ・フェスティヴァルの当たり年で、週1回で約10万人を前に演奏することになったんだ。
T:1969年の夏はビッグなロック・フェスティヴァルの時代で、俺たちはそのすべてで演奏した。デンヴァー・ポップ・フェスティヴァル、マイアミ・ポップ・フェスティヴァル、トロント・ポップ・フェスティヴァル、そしてもちろんウッドストック。これには驚いたな。グレイトなバンドと同じチラシに載ったんだ。ジミ・ヘンドリクス、フー、オールマン・ブラザーズ・バンド、ブラインド・フェイス、レッド・ツェッペリン、ローリング・ストーンズ、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーン、フランク・ザッパなどとね。生活-そして世の中も-当時はずっとシンプルだった。いいバンドさえあればレコード契約を得るのは難しくはなかった。スポンサーの協賛のようなものもなかった。アーティストは音楽を創造し、聴衆はアーティストを支えた。国は当時はずっと無害で、経済的な格差も少なく、今日のようなテロリストの存在もなかった。人々は音楽のために生活していたし、とどまることはなかった。自分たちの文化の形成にとって活動的な参加者だったんだ。60年代後半の感性は人生におけるグレイトなものや、グッドなフィーリングやパワフルなコネクションに対する無制限な可能性が、誰に対してもあったということだ。音楽から人生のあらゆる側面へとクロス・オーヴァーする精神的な統一性があったんだ。
Q:時代の精神はあなたの次のアルバム"Second Winter"に録音した音楽に反映されましたか?
J:俺たちは成功で自信を強め、"Second Winter"では一層の実験に走って、俺たちのオリジナルは一層クリエイティヴになった。"The Good Love"や"First Life Rider"のようなよりロック志向の曲では新しいものを発見した。この二つの曲ではワウワウ・ペダルを使ったけど、それまでやったことがなかった類のことで、あれ以来やっていない。"I’m Not Sure"という曲では友人のマイナー・ウィルソンが俺のために作ってくれたエレクトリック・マンドリンを使った。ヤツはそれにベース用のピックアップを載せ、演奏するのはなかなか楽しかった。
U:あの曲の超現実的な雰囲気は普通でない楽器編成の賜物なんだ。ジョニーのエレクトリック・マンドリンはハープシコードのような音色にセットされたエドガーの初期のシンセサイザーでバックがつけられている。サウンドをワイルドに、何か違ったものにする試みだったんだ。ジョニーがエレクトリック・マンドリンを手に入れた直後にザ・バンドのロビー・ロバートソンがそれを見て、ジョニーにどうやったら手に入るのか訊いていた。当時そんなものはあれしかなかったんだ。
J:すべての曲がかなり短期に集まった。実はアンクやトミーにどう演奏するのか正確に伝えることはできなかった。彼らに曲を弾いて聴かせ、彼らはすぐにそれをモノにしたんだ。俺はいつでも曲を最初の2テイク内で録音したかった。そうすることによってフレッシュさやエキサイトなものが演奏に加わるからだ。同じ曲を何度も何度も演奏したりあれこれ考えたりしていると音が悪くなり始めてフィーリングを失ってしまうんだ。俺たちは全部で2週間ほどですべてを録音した。
E:ジョニーのレコーディングのスタイルはまさにブルースの伝統そのものなんだ。とてもライヴだし、とても速いし、スタジオで多くの時間を費やすことはしない。1・2テイクで曲がモノにならなかったら、次の曲に行けってことさ!ジョニーは舵取りには適任者なんだ。
Q:"Second Winter"は音楽的なスタイルでかなりの多様性を描き出していますね。実験的なロック("Memory Pain"、"I’m Not Sure"、"The Good Love、"Fast Life Rider")、トラディショナルなブルース("I Love Everybody"、"Hustled Down In Texas")、スゥインギング・ジャズ("I Hate Everybody")、そしてロックン・ロール・スタンダード("Johnny B. Goode"、"Miss Ann"、"Slippin’ And Slidin’")。
U:アルバムのための音楽を選択するにあたって、俺たち誰もが好きな曲を振り返ってみたんだ。それは主としてブラック・ミュージックで、俺たち自身の音楽の中にもはっきりと示されている。
J:"Second Winter"の中には異なるスタイルの音楽がたくさんある。"Memory Pain"はアルバムのためにまとめ上げたものだ。俺はあのトラックではギブソンSGを使い、たぶん他のたいていの曲ではゴールドトップのレス・ポール、さらにスライドには6本弦を張ったフェンダーXIIだった。俺たちはレコーディング・テクニックの実験をやっていて、"Memory Pain"では変わった感じの音を得ようとギターアンプを階段の吹き抜けへ置いたりしたんだ。
U:パーシー・メイフィールドの曲だがオリジナルトラックは聴いたことがなく、どんな音だか思いもつかなかった。ジョニーは座って俺たちにすべてのパートをやって見せてくれたんだが、どう演奏しろとは言わなかった。俺たちは自然に曲を共同解釈したわけだ。
Q:あの曲のギターの音はかなりディストーションがかかっていますね。ディストーション・ペダルを使ったのですか?
J:いや、俺は"Livin’ In The Blues"(非公式にリリースされている曲)のようなごく稀な場合を除いてディストーション・ペダルを使ったことはないよ。アンプがでかく鳴るようチューン・アップしたんだ。
Q:"Second Winter"のトラックの中でも異彩を放っているのはジョニーのオリジナル作"I Love Everybody"で、素晴らしいアレンジと、"Johnny Winter"の"I’m Yours And I’m Hers" のアプローチと同様にエレキで演奏されたカントリー・ブルースのまったくオリジナルなアップデート版と特徴づけられますね。
J:"I Love Everybody"は俺がこれまで録音したお気に入りのトラックの1つだ。イントロでは2本の異なるスライドが聴こえるが実は左右にパンした同じギターだ。なかなかのブルース感で演奏したファンキーなビートだ。
Q:"Second Winter"にはその対極を成すような"I Hate Everybody"という速いスィングも入ってますね。
J:あれは演奏が難しい!あの曲に関してはいろいろあった。
Q:"Second Winter"の中でも傑出しているのはボブ・ディランの"Highway 61 Revisited"のカヴァーで、あなたの激しいエレキ・スライド・ギターの爆発に説得力がありますね。
J:"Highway 61 Revisited"は俺がずっとディランの大ファンだったのでやった曲なんだ。俺の世代ならボブ・ディラン好きにならずにはいられないさ! あの曲はかなり長いことクラブで演奏して来たんだけど、それまでスライドでやったことはなかったんだ。ホントにうまくいったな。
U:改良と認められるディランの曲は2つある。ひとつはジミ・ヘンドリクス・ヴァージョンの"All Along The Watchtower"でもうひとつは俺たちのヴェージョンの"Highway 61 Revisited"だ。ボブは今では"All Along The Watchtower"をジミのように演奏しているし、"Highway 61 Revisited"もかなりロック化してやっている。あの曲は今でもよく放送されているよ。
Q:"Second Winter"のオリジナルがリリースされたとき、3面の2枚組でした。別な言い方をすれば、2枚目の裏側はブランクでした。
J:みんなびっくりして、それを理由にレコードは注目された。俺たちは録音したすべてを出したかったし、数え上げたら3面になったんだ。面白いのはこの3面の長さが今の平均的なCDと同じだということだな。
Q:今回の"Second Winter"のデラックス・リイッシューの目玉は未発表のボーナス、"Live At Royal Albert Hall"ですね。それはあなた方の絶頂期だった1970年のヨーロッパ・ツアーでのグループのパワーのピークを捉えています。当時のことを覚えていますか?
J:俺たちはあの時ヨーロッパをツアーして回って嬉しかったな。何かを証明したって感じだった。できれば俺たちの音楽を世界中に広めたかったのさ。そしてかの地でも観客は俺たちのファンだったし。ライヴ盤は当時俺たちがどんなサウンドだったかの格好の再現だな。
E:今回の3枚のニュー・リリースで僕にはっきりと見えたことは、エネルギー、創造力、オリジナリティ、そして冒険の精神だな。これらのレコードはジョニーと僕のもっとも緊密なコラボレーションを表現している。"Live At Royal Albert Hall"を聴いてもらえばわかるけど、ジョニーがショーの前半部分を三人でやって、そして「弟のエドガーの登場だ!」と言っている。僕はバンドの連中とクアドラングル(ニューヨーク州北部)に住んでいて、そこで最初に"Frankenstein"(エドガー・ウィンター・グループの1972年のアルバム、"They Only Come Out At Night"からのヒット・シングル)のオリジナル・フォームを練り上げたんだ。そこは僕たちみんなにとっての練習場だったんだけど、特に自分にとってそうだったな。この経験で僕は自分自身のバンドを率いて自分自身のスタイルを追及する自信がついたんだ。"Live At Royal Albert Hall"は僕たちのバンドの忠実な再現だと思う。多くの部分はとても荒削りだったし、当時はまだ模索中だった僕は特にそうだったね。でもジョニーはずっと自分のモノをやってきたし、その点でジョニーは驚異的だな。あのライヴにはジョニーがトリオでやっていた"Help Me"や"It’s My Own Fault"のような古いブルースの曲に加えて、新しいアイディアを代表する"Frankenstein"のようなものも含まれている。それだからこそ生き生きとした興味深いリリースなんだ。アルバート・ホールのショーを"Second Winter"と一緒に出すのはまったく理にかなっているよ。僕たちがライヴでやったことはスタジオでやったとこと深く結びついているからね。
J:"Johnny Winter"や"Second Winter"が発見され、再発見されるチャンスができてホントにうれしいよ。ロイヤル・アルバート・ホールのライヴは素晴らしいボーナスだ。あの時期は俺たちにとってとてもエキサイティングな時代で、その音楽は今でも十分通用すると思うよ。
☆一部に"Johnny Winter"や"Second Winter"のライナーノートからの引用を含みます。
訳:東淀川スリム氏