1991年Oka Katsuyuki氏によるインタビュー
Metal Gear1991年12月号より引用
Q:1枚のアルバムしか残さなかったわけですが、まずはポイントブランク移籍のいきさつを教えてください。
Johnny(以下J):MCAとはアルバムを出す前にずいぶん話し合ったのに、彼らは俺が何を演りたいのかを理解してくれなかった。要するにブルースに対しての考え方の違いなんだけど、彼らは俺にもっとモダンなものを求めていてラジオ・オンエアの話ばかりしていた。ラジオのことを考えろと何度言われても、俺にはどうしていいのか判らない。彼らのプロモーションの姿勢には納得がいかなかったよ。MCAはいいレーベルだと思うけど、俺にとってはそうじゃなかったということだね。相性が悪かったんだ。それで1枚のアルバムでクビになったのさ。すごく嬉しかったよ。たぶんMCAが俺にしてくれたことで、一番いいことだったんじゃないかな(笑)
Q:で、ポイントブランクがアプローチしてきた?
J:そうだよ。俺もレーベルを探しているところだった。ポイントブランクは俺にブルースを演ってほしいといってくれたし、それをよく理解していた。彼らは俺に「演りたい音楽を、希望するミュージシャンとプロデューサーを使ってレコーディングすればいい」と言ってくれたんだ。そしてアルバムを作っているあいだ、ずっと見守っていてくれた。
Q:レコーディングはどのような感じで行われたのですか?
J:まずは非常にシンプルにギター、ベース、ドラムのトリオでバック・トラックを録った。そしてヴォーカル、ピアノ、ハーモニカなどを後から入れるんだ。これが俺にとって一番やりやすい方法なのさ。
Q:収録曲について解説してくれますか?
J:ほとんどの曲は昔テキサスのクラブでプレイしていたものだ。自分で作ったのは"Let Me In"と"If You Got A Good Woman"の2曲だけさ。俺はもともと曲を書くほうじゃないので、レコードを作る前にまずカヴァー曲を考えるんだ。"Blue Mood"はTボーン・ウォーカーの曲で、"ShameShame Shame"はジミー・リードの曲だ。それから"Sugaree"はマディ・ウォーターズが作ったんだけど、俺は彼のバージョンを聴いていない。Hank Ballard And Midnightersが演っていたもので、いつか取り上げたいと思っていたんだ。
Q:ゲストにまたドクター・ジョンが参加してますよね。
J:彼との付き合いは、かれこれ25年になるよ。これまで5、6回一緒に仕事をしたことがあるんだ。アリゲーター時代のアルバムも参加してくれたし、ヨーロッパ・ツアーもやった。彼は本当にいいプレイヤーで、常に素晴らしい音楽を作り上げている。そして俺の音楽を判っている数少ないミュージシャンのうちの一人だ。それから今回はやはりアリゲーター時代のアルバムでハーモニカを吹いてくれたビリー・ブランチも参加している。
Q:アルバムの出来には満足してますか?
J:もちろん。今とてもハッピーなんだ。バンドは最高だし、マネージメントもいい。この状態がずっと続けばいいと思っている。
Q:ツアーには出るのですか?
J:あと1週間でツアーが始まる。9月はヨーロッパにも行くんだ。
Q:そういえば春にエドガーが、ヨウジ・ヤマモトのモデルとして来日したのですよ。
J:知ってる(笑)で、彼のモデルぶりはどうだった?俺もぜひ観たかったな。エドガーから日本のことは聞かされているんだ。俺も近いうちに絶対行くよ。
Q:それでは最後に。テキサスにはブルース・ベースの白人ミュージシャンが多いですよね。その先輩格として後のシーンにどのような影響を与えたと思いますか?
J:昔は黒人と白人のクラブに分かれていたんだ。そしてブルースは黒人のクラブにしかなかった。俺が何かしたとすれば、テキサスでブルースを聴きやすくしたことだな。
★Johnny Winter本人によるアルバム解説
俺はCBSと契約する前にも何枚かレコーディングしているんだ。最初のバンドは14歳ぐらいの時のもので、エドガーがピアノを担当していた。二人ともまだ学生だったけど、いろんなバンド名を使ってはテキサスのクラブに出演してたよ。当時のレコードが今になって発売されている。いくつものレーベルから様々な名前を使ってね。ロイ・エイムスという男がいて、そいつは俺の承諾なしに昔の音源を再発しているんだ。ジャケットやタイトルを勝手に変えてね。
きっかけはローリング・ストーンズ誌の記事だった。「テキサスにはまだ世に出ていない素晴らしいアーティストが残っている」と書いてある記事に、俺の名前も入っていたんだ。そうしたら大勢の人が契約の話をしに来た。そんな中からCBSが一番良い、ということで契約したんだ。当時"100万ドルのギタリスト"とか言われて、「Johnny Winter」を発表しても音楽のことよりお金のことばかり話題になってしまった。だけど本当はそんなに貰った覚えはないんだ。
The Progressive Blues Experiment
このアルバムは’67年にテキサスでレコーディングしたんだ。CBSと契約する1年ぐらい前のことで、その後リリースされるのを待っていた。ライヴの雰囲気を出したかったので、いつも一緒にプレイしているバンドと、クラブでレコーディングしたのさ。オーディエンスはいなかったけどね。1テイクか2テイクで上げたから、2日間で完成した。
エドガーの目立っているアルバムだ。と言うのも俺が「Johnny Winter」を発表したすぐあとに、弟もCBSと契約を結んだ。俺としては彼を世の中の人々に紹介したかったのさ。だからこれはエドガーのショウ・ケース的なアルバムなんだ。細かいところははっきり覚えていないけど、良い作品だったと思う。前作に続いてナッシュビルでレコーディングしたんだ。
Johnny Winter And
Johnny Winter And Live
Johnny Winter Andを結成したことは俺にとってもビッグ・チェンジだった。当時アメリカではブルース・リヴァイヴァルがピークを過ぎていたので、みんなからもっとロックン・ロールを演れと言われたんだ。そうしないと忘れられてしまうよ、ってね。「Johnny Winter And」、「Johnny Winter And Live」共に、それまで俺が演ってきたことを考えるとコマーシャルなアルバムだ。いま振り返ってみれば両方とも良い作品なんだけど、当時は100パーセント満足できなかった。メンバーもブルースというよりは、ロックのミュージシャンだった。でもこの2枚は俺のアルバムの中で最も売り上げが良かった。
実はこれが俺の一番好きなアルバムなんだ。当時、ツイン・ギターで演ることに疲れてしまってね。リック・デリンジャーは素晴らしいギタリストだったけど、俺一人で演りたくてトリオでプレイしたんだ。いまでもとても気に入っているよ。
このアルバムに関してはほとんど覚えていない。前作同様ニューヨークでレコーディングしたんだけど、あとは記憶にないよ。
このアルバムからブルー・スカイに移籍したんだ。俺のマネージャーだったスティーヴ・ポールが作ったレーベルで、契約金も良かったからね。でもいま考えるとあれは失敗だった。お金は結局マネージャーのところに入るものだし、ブルー・スカイのプロモーションにも満足できなかった。契約が早く切れないか本当に待ち遠しかったよ。「John Dawson Winter III」も、ほとんど覚えていない。プロデューサーが誰だったかすら思い出せないよ。
どこだったかは忘れたけど、3ヵ所のライヴをまとめたアルバムだ。多分カリフォルニアだったと思うよ。これは「Still Alive And Well」と同じぐらい好きな作品で、もしかしたらそれ以上に気に入ったかもしれない。
これは「Captured Live!」と同時期に収録したアルバムで、エドガーと一緒に演った部分をまとめたものだ。
これはマディ・ウォーターズと一緒に演りはじめた後に作ったアルバムだ。俺は長いことすっとストレートなブルースが演りたくてしょうがなかった。でもマネージャーはロックン・ロールを演らなければだめだと言い続けていたよ。ブルースなんかじゃ売れない、ってね。でもマディと一緒にレコーディングしてみて判ったのは、ブルースも売れるということだった。マディとの最初のアルバム「Hard Again」はグラミー賞をとって、ブルース・ファンがいることを証明したんだ。それでマディとのレコーディングに参加したミュージシャンを使って、「Nothin’ But The Blues」を作ったのさ。ブルースを演れて本当にハッピーだったよ。おかげでマネージャーとの関係は、ますます悪くなってしまったけどね。でも、考えの違うふたりの人間が同時にハッピーになることなんで、ありえないんだ。
「White, Hot & Blue」は大変な思いをして作った。俺はブルースのマテリアルでアルバムを作っていたんだけど、一緒に演っていたのはブルース畑のミュージシャンじゃなかった。ドラマーは腕の立つ奴だったけど、ロックン・ロールのミュージシャンだったし、ハーモニカ・プレイヤーはとても若かったので俺がいろいろ教えてあげなければならなかった。ブルースを演りつつコマーシャルな作品に仕上げることは大変だ。もちろん俺はロックン・ロールが大好きだし両方とも弾けるけど、ラジオのオン・エアーを考えることは苦手なんだ。
「Raisin’ Cain」はあまり気に入ってない。コマーシャルだからね。このアルバムを作った時点でロックン・ロールを演ることは、本来の俺のじゃないことを実感したんだ。レコード会社はそれに早く気づいてほしかった。CBSとは12年間も一緒にやってきたんだからね。マネージャーはいつもコマーシャルなことを演れとプレッシャーをかけてきた。そのうちに自分の本当に演りたいことをやるのが、怖くなってしまったんだ。だから俺は「White, Hot & Blue」「Raisin’ Cain」を仕上げて、レコード会社ともマネージャーとも分かれることを決めたのさ。
俺はもっとブルースを演りたかったので、シカゴのアリゲーターと契約した。「Raisin’ Cain」を発表したのが’80年だったから、まる3年かかってしまったけどね。でも「Guitar Slinger」のレコーディングは一週間弱で済んだ。すごく簡単にできた作品だよ。アリゲーターに移され、とても嬉しかったんだ。ただひとつ厄介だったのはアリゲーター・サイドから、俺のバンドではなくシカゴのミュージシャンを使えと言われたことだ。リズム・セクションはアルバート・コリンズのバックメンだった。彼らは素晴らしいミュージシャンだから別に難しいことはなかったけれど、俺のバンドを使ったほうがよりスムーズにできたと思う。
サウンド的にはそれほど満足してないアルバムで、いろいろ論争を戦わせた作品だ。ミュージシャンに関して不満はないんだけど、問題はプロデューサーだと思う。3人もプロデューサーがいたから、お互い意見が食い違うと収拾がつかなくなる。俺一人でプロデュースしたほうが、もっと良いサウンドになったはずだ。ブルース・イグロアはアリゲーター・レコードの社長としては優秀だけど、自分が思っているほど素晴らしいプロデューサーじゃないと思う。
ほとんど「Serious Business」と同じようなプロダクションでレコーディングした。ただひとつだけ違っているのは自分のバンドを使ったことだ。トミー・シャノン、アンクル・ジョン・ターナー…、みんな戻ってきた。それにドクター・ジョンも参加してくれた。昔の友達がまた集まってプレイできて、楽しかったよ。
「The Winter Of ’88」は悪いできじゃないけど、もっと良いものになったはずなんだ。プロデューサーのテリー・マニングと俺は合わなかったので、思っていたような作品には仕上がらなかった。俺は音楽を作る立場だし、テリーはプロダクション・サイドの人間だ。結果的に俺が思ってたよりコマーシャルなものになってしまった。俺に彼のやり方が気に入らなかった。もう一緒に仕事することはないだろうね。
With Muddy Waters
Hard Again
I’m Ready
Muddy "Mississippi" Waters Live
King Bee
マディ・ウォーターズとは一緒にレコーディングする6~7年ぐらい前から知り合った。俺は12歳のころから彼の音楽が大好きで、ずっと共演したいと思っていたんだ。そしてテレビの仕事で2度ほど一緒にプレイしたのがきっかけとなり、ある日マディのマネージャーが俺のマネージャーに共演の話を持ちかけてきた。もちろん俺はOKさ。一緒に演るのが待ちきれなかったよ。彼とのレコーディングはハッピーかつグレイトで、俺のキャリアのなかで最高の時期だったね。ライヴも大成功だった。オーディエンスは俺たちのブルースを聴きたがり、それを見てブルース・ファンがいることを確信したんだ。ブルース・ファンはロックン・ロール・ファンに比べて数は少ないかもしれないけど、確かに存在するんだ。マディと演って判ったのは、ブルースだけでも生計は立てられるということ。それを教えてもらい、とてもハッピーだった。マネージャーはハッピーじゃなかったけどね。俺の人生で最高の出来事は、マディー・ウォーターズとプレイできたことだ。