1988年冬 Brent Snyderによるインタビュー
The Beaumont Enterprise 1997年12月号より引用
ジョン・ウィンターは息子たちが自宅の車庫で演奏している光景を回想している。騒がしいロックン・ロールが通りに鳴り響き、 近所の人たちの耳に達するのを思い出すにつれ、顔に笑みが広がっていった。
「せがれたちの音楽はいつ聴いてもいいね。」
と彼は言って、ロッキング・チェアに座る。
「もちろんほとんどはかなり騒々しいものだけどね」
1988年の冬、白い髪と白い肌のクラシック・ロックの伝説、ジョニーとエドガー・ウィンターの父親はジョージ・ジョーンズ広場やジェファソン劇場が見えるホテル・ボーモントの15階の部屋の隅に座っている。
ホテルに引っ越してきたのは3月だった。日常生活に特別な援助を必要とする居住者のためのフロアに住んでいる。妻のエドウィナが腰と腸の手術から回復するまでホテルに滞在するそうだ。
あとどれぐらいホテルに留まらねばならないかは分からないが、ホテルの滞在は目下のところ良好だそうだ。
「ホテルはほんとにいい。設備はいい…、くたびれとるし、擦り切れとるし、どうにも困った状態だが、いいね」
父ジョンは不満はないんだと強調する。
「わしを忙しい状態にしておきたいようだが、それは良いこったな。わしの代わりに服を洗ってくれ、その手のことはすべてやってくれる。そして食事も2・3の例を挙げればさほど悪くない」
だが父ジョンはそんことより有名なロックスターの息子たちについて話したがった。
「ジョニーはギター好きでしょっちゅう弾いていた。ギターはジョニーにぴったりだね。他方エドガーは作曲やプロデュースが好きだ。おそらく周知のことだろうがね」
ジョニーとエドガー―「フランケンシュタイン」や「フリー・ライド」といったエドガーの60年代クラシック・ロックのヒット曲やジョニーの『ファースト・ウィンター』アルバムでよく知られている―は定期的に彼らの音楽のCDを父親に送っている。
「できれば聴きたいのだが、このホテルではできない。ステレオがないからね。でも自宅ではいつも聴いているよ。どの曲も同じくらい好きだ。最初のレコードを送って来たときのことを覚えている。今でもせがれたちの新しいCDを聴くと同じぐらいわくわくするし誇りに思うよ」
大ウィンターはジョニーとエドガーが音楽に対する愛情を得たのは彼とピアノを弾く彼の妻が息子たちに音楽的なバックグラウンドを与えたからに違いないと言う。
ミシシッピ州リランドで生まれた父ジョンとその家族は5人編成のバンドで両親の家のポーチの前で演奏していた。
「わしの母親はピアノを弾いた。わしはサックスだ。一人の姉妹がドラムスを叩き、もう一人がギターを、そして父親はフルートを吹いたんだ。一家で歌って演奏して、近所の連中がみんなで聴きにきたもんだよ」
父ジョンは第二次世界大戦中陸軍に従軍するためにミシシッピ州を離れ、北アフリカ、イタリア、そして南太平洋で戦った。海外にいる間に長男の誕生を知った。
「ジョニーは1944年に生まれたとき、わしはまだ軍隊にいた。そしたら男の子が生まれたとの手紙を受け取ったんだが、写真は送ってこなかったんだ」
「ジョニーはアルビノだったと書いてあった」
父ジョンはなぜジョニーが肌や髪や目が正常な色を欠いているアルビノとして生まれてきたのか見当がつかなかった。彼の家系のも彼の妻の家系にもアルビノの記録はなかったが、父ジョンはそんなことは問題ではなかったと言った。
「あの子はわしの息子だからね」
父ジョンは1946年に戦争から復員するまで息子には会えなかった。そのときジョニーは3歳だった。同じ年に父ジョンは家族とともにボーモントに引っ越し、家を建て、紳士用服飾品を商った。
「医者にもう一人子供が欲しいのだけど、その子もアルビノだという可能性はあるのか訊いたんだ」
医者は次の子供がアルビノである可能性は10万に1つだと言った、と父ジョンは語った。
「そして1946年にエドガーを授かったのだが、ジョニーとまったく同じだった! エドガーが生まれた後で、アルビノの子が生まれる可能性は実は4分の1だったと知ったんだ」と父ジョンは笑いながら語った。
ジョニーもエドガーもアルビノに生まれてくる可能性があるので子供は作らないと決めたのだと父ジョンは語り、彼も彼の妻も孫がいないことに悔いはないと付け加えた。
「わしらはせがれたちの決断を尊重するさ」
二人のアルビノの息子を1940年代後半に南西部のテキサス州で育てることは容易ではなかったが、不可能なことでもなかったと父ジョンは言った。
「どこへ行くにしても息子たちは誰かに一緒について来てもらって面倒を見てもらわねばならなかったんだ。息子たちは法的には盲人なんだ。車の運転はできない」
兄弟ともボーモント高校に通い特殊教育クラスで受講した。
「置いてある物が見えないのだから、普通のクラスルームの条件ではなかったことは分かるだろう。でも息子たちはそれを克服して学校ではとてもうまく振舞っていたんだ」
父ジョンは息子たちが学校の教師たちにも生徒たちにも良くしてもらったと言っている。
「誰もができうる限り息子たちを助けようとベストを尽くしてくれたんだよ」
14歳と11歳の年に、ジョニーとエドガーはジョニー・アンド・ザ・ジャマーズというバンドを結成した。グループはタレント・コンテストで優勝して、ご褒美に’Schoolday Blues’と’You Know I Love You’をレコーディングした。
「息子たちには天賦の音楽的才能があったんだ。息子たちに音楽的な才があると気づいたときに、わしたちは楽器を買い与え、息子たちの音楽を励ますためにできることは何でもやったさ」
ジョニーはボーモント高校を卒業し、さらに音楽を学ぶためにラマール大学へ進学する決意をした。
「ああ、ジョニーはラマールへ行ったけど自分のためになるものは何もないと言い、『俺は退学してバンドを結成するんだ』と言ったんだ」
ジョニーは実行した。
「ジョニーはエドガーに一緒にやらないかと話したんだ。エドガーはまだ高校を卒業していなかったんだが、わしらはあとで卒業するように念を押したんだ。エドガーはバンドをやりたがっていたし、それが、音楽を演奏することが彼にとってベストのことだった。そしてエドガーは兄が好きで、できれば兄を助けたがっていて、だからわしらも息子たちを止めることはしなかった。わしらは息子たちに『やりなさい』と言ったんだ」
これから後のことは歴史が物語っている。父ジョンは自分の息子たちを褒めるばかりだった。
「息子たちには怠慢なところはまったくない。仕事好きで、忙しくしていたい。いつも起きたら出かけて行って何かをするのが好きだった」
「わしら二人とも二人の息子が自慢で、息子たちのためならできることなら何でもするさ」
父ジョンはここ何年か二人の息子に会っていない。ジョニーは近々ツアーに出かけ、エドガーはニュー・アルバムの仕事でスタジオにいる。
「息子たちはほとんど顔を見せないね」と二人の父親は語った。
そうしているうちに、父ジョンは自らの音楽に対する志を語り始めた。火曜日の午後にホテルのロビーで開催された ジョセフィン・ヒューストンの92歳の誕生日パーティーではメインの歌手の一人だった。他の入居者とクリスマス・キャロルを歌い、とても楽しんだようだ。
「分かってくれると思うけど、わしはほんとに音楽が好きなんじゃ」と彼は微笑みながら語った。
訳:東淀川スリム氏