2000年Andy Aledortによるインタビュー
Guitar Magazine 2001年2月号より引用
Q:ブルース/ロック・ギタリストの生きた伝説と称されるあなたですが、ギターは始めて手にした楽器じゃないそうですね。
Johnny(以下J):ああ、4歳ぐらいの時にクラリネットを始めたんだ。両親はミュージシャンだった。母はピアノを、父はサックスとバンジョーを弾いていて、週末にライブをやっていた。本業は家の建築業者だったんだけどね。子供の頃、よく親父にバンジョーやウクレレのコードを教えてもらったよ。古いスタンダード・ナンバーを弾いてみせてくれた。
Q:最初にギターを手にしたのはいくつの時ですか?
J:11歳。クラリネットをやめなきゃいけなかったんだ。歯列矯正をしていて、楽器をくわえていると噛み合わせがますます悪くなるからって。それでウクレレに転向した。そのうち、ギターをやりたくなってきてね。親父もギターを薦めてくれたよ。だって、ウクレレで有名な人っていったら、アーサー・ゴッドフレイとウクレレ・アイクぐらいだろ!
Q:刺激を受けたギタリストはいましたか?
J:いたよ。マール・トラヴィスとチェット・アトキンス。ちょうどギターを始めた頃に、ルーサー・ネイリーって奴と知り合って、そいつが弾き方を教えてくれた。ルーサーはチェット・アトキンス・スタイルにどっぷりで、俺も感化されてサム・ピックを使うようになったんだ。フィンガー・スタイルには欠かせないからな。マディー・ウォーターズにしてもジミー・リードにしても、ブルースマンで使っている人は多いよ。でも、あとになってサム・ピックにこだわりすぎたなって思うよ(笑)。
Q:当時から練習熱心でした?
J:もちろん。暇さえあれば弾いていたよ。両親も理解があってさ。俺が音楽に熱心なのをわかってくれていた。おまけに聖歌隊で歌っていたおかげで、声も鍛えられたな。
Q:初期の録音の仲に59年、15歳でリリースした「アイス・キューブ」がありますね。その時点で、ギターを弾き始めてたった4年だったのに、スピード感や緻密さといった現在のウィンター・スタイルがしっかり出来上がっていますね?
J:ギターを始めた時から理想のサウンドがあったんだ。だから、あとはそれを実際に形にするだけだった。かなり自然にできたよ。クラレンス・ガーロウ(*)が俺の育ったボーモント市のラジオ局KJETでDJをやってたんで、仲良くなって、音楽のこといろいろ教えてもらったな。例えば、当時手に入る弦といえばギブソンのソノマティックぐらいだったんだけど、3弦が必ずワウンド弦(巻弦)だったんだ。それなのになぜチャック・ベリーは、ワウンド弦であれだけガンガンにベンドしたリックを弾けたんだろう。ワウンドの弦じゃ俺にはとっても無理だった。そこでクラレンスがプレーンの3弦を教えてくれて、世の中がひっくり返っちゃったよ。
Q:あなたが得意とするブルース・リックの無限なレパートリーは、どうやって築いたんですか?
J:ブルースのレコードを片っぱしから買ったんだ。すっかりはまって、レコードを聴いてはリックを覚えられるだけ覚えた。それしか方法は知らなかったからね。ブルースはいくら聴いても聴き足りなかったよ。そのほとんどはマディー・ウォーターズとハウリン・ウルフのものだった。あの二人が一番好きだ。ウルフの右腕だったヒューバート・サムリンも良いね。パット・ヘアやジミー・ロジャースも大好きだ。ふたりともマディーとプレイしてるんだ。パット・ヘアは、テクニック的にそれほどすごいってわけじゃないけど、かなり良い味を出してるんだ。トーンもクールだし。それとボビー”ブルー”ブランドのギタリストたちもよく聴いていた。特にウェイン・ベネットが良くて、彼以外の人は覚えていないくらいだ。ボビーのレコードは全部聴いたよ。腰を据えて、リックというリックを片っぱしから拾っていった。
Q:Tボーン・ウォーカーからも随分と影響を受けたんじゃないですか?
J:大当たりだ。俺のトーンと彼のそれとかなり違うから、なかなかそう思わないけど、Tボーンのフレージングや音の選び方には、大いに影響を受けたね。
Q:スライド・ギターを初めて試したのはいつでしたか?
J:「ベスト・オブ・マディー・ウォーターズ」(58年)を聴いて以来だ。最初、スライドを押弦を交互にしているのは聴き取れたんだけど、その方法がわからなかった。アルバムの裏ジャケットにあるライナーノーツを読んで、かろうじて見えてくるわけ。いつも”ボトルネック・ギター”って書いてあって、どうやら瓶の首を割ったり、牛の骨を使うらしいってことがね。結局、ありとあらゆる道具を試したよ。ナイフ、口紅のケース、腕時計のガラス…。そして、ついに見つけたのが配管で使う導管さ。指にぴったりのパイプを見つけて、ちょうどいい長さに切ってもらった。今でも、それを使っているよ。
Q:スライド・プレイには欠かせないオープン・チューニングのことは、どうやって知ったんですか?
J:ロバート・ジョンソンの「キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース・シンガーズ」を聴いて知ったんだ。オープン・チューニングの仕組みは単純に耳から覚えたよ。それがスライドに、いかに合うかを知った時は大革命だったね。
Q:あなたのソロと言えば、ケタ違いのスピード、正確さ、そして強烈なビブラートが持ち味ですが、このスタイルはどうやって築いたのでしょう?
J:自然にそうなったんだよ。頭の中で聴こえる音を形にしただけさ。とにかく、レコードを聴いて、プレイして、リックをすべて自分なりにつなぎ合わせるんだ。速弾きは、なんとなくしっくりくるからやってるだけ。最初はビブラートのやり方も知らなかった。トレモロ・アームを使ってるのかと思ってたんだ。自分はそうしてたしね。そのうち、いろんな人の演奏を観るようになって、ビブラートを指だけで表現できると知った。そして「ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン」を聴いて初めて気づいたんだけど、ヘヴィなビブラートを出すには指を使わなきゃいけないんだ。それがわかったら、そうしないとメンツに関わるような気がしてさ(笑)。それでトレモロを取っ払って、フィンガー・ビブラートをマスターしたのさ。
Q:あなたの初期のシングルを聴くと、当時の流行のスタイルは何でもプレイしていたみたいですね。カントリー、ポップス、R&B、ブルース…。
J:人が聴きたいと言えば何でもやったよ。良いクラブで仕事をしたかったら何でも弾けなきゃいけない時代だったからな。当時は、ミュージシャンたるやそういうものと思われていたんだ。
Q:ミュージシャンとしてツアーを始めたのはいつですか?
J:15歳の頃。ルイジアナにはよく行ったよ。ボーモントからたった25マイルだったからね。あそこはカッコいい白人バンドがけっこういたな。15歳で本物のナイト・クラブのステージに立つなんていったら、かなりワクワクしたぜ。
Q:62年18歳のときにシカゴに引っ越したのが、ミュージシャンとしての本当の”初ツアー”だったのでは?
J:そうだな。シカゴへはギグをやるために行ったんだ。その頃はチャビー・チェッカー(※)が大物でね。クラブではどの曲もツイスト風にプレイしなきゃいけなかった。
Q:テキサスに戻ったあと6~7年はセッションをたくさんこなしていましたね。
J:随分やったよ。テックス・リッター(*)の叔父、ケン・リッターなんかとね。レコードも出した。64年に自分の名前でリリースした「エターナリー」はビッグなヒットになったんだ。
Q:「エターナリー」の成功後はどうしました?
J:ルイジアナに舞い戻ったよ!(笑)だけど、戻ってからは大したことはなかった。
Q:63~68年は多くの曲を、それもさまざまなスタイルでレコーディングしていますね。「Birds Can’t Row Boats」はバーズ風。「Coming Up Fast」はローリング・ストーンズっぽい。「アボカド・グリーン」はディランに似た…。それからR&Bやカントリー、ブルース、その上サーフ・ミュージック、サイケデリック・ロックまで、本当にさまざまなスタイルで録音していますが。
J:当時は、できるだけ多くのレコードを出してラジオでのヒットを狙ってたんだ。頭の中はそればっかり。”ラジオでヒット曲を出すぜ!”ってね。ブルースで稼げるとは思ってなかったから、みんなで考えつくすべてをレコーディングしたのさ。友達のデニス・コリンズが「リヴィング・イン・ザ・ブルース」を書いて、ロビー・レフが「アボカド・グリーン」をボブ・ディランに似せて書いた。
Q:セッションマンとブルースマンというふたつの顔を持つことに、抵抗を感じませんでしたか?
J:ブルースに時間をたっぷり費やしたいというフラストレーションはあったよ。本当にやりたい音楽を始めたのは68年にトミー(シャノン)とレッド(”アンクル”・ジョン・ターナー)と知り合ってからだ。ふたりとの出会いは、俺がヒューストンにいた頃さ。ダラスで知り合ったレッドがギグを探しに来たんだ。そして”何が何でもやりたい音楽をやれ”って彼が言ってくれたんだ。いずれは成功するからって。”わかった、やるだけやってみよう”って俺は言ったよ。レッドがダラスでトミーとプレイしたことが何度かあって、俺にもぜひ聴けって言うもんだから、ふたりでダラスに行ったんだ。
Q:ヒューストンのブルース・シーンは面白かったんですか?
J:オースティンのほうが面白かったね。だから、オースティンの”バルカン・ガス・カンパニー”ってクラブで2週間に一度ぐらいプレイすることにした。ヒューストンでも、”ラブ・ストリート・サーカス”や”フィールグッド・マシーン”ってクラブで定期的にやってたけどね。あの頃はほとんど稼げなかった…。
Q:生活のために音楽以外の仕事はしてなかった?
J:してなかったね。
Q:いわゆる”正式な”就職をした経験は?
J:ない!(笑)ギターを教えていたことはあるけど、俺、我慢が足りなくてさ(笑)
Q:67、68年に若者文化やミュージック・シーンが爆発的に広がって、びっくりしませんでした?
J:かなり驚いたよ。何もかもが物凄い速さで変化する目まぐるしい時代だった。レッドの言ったとおりだ!ブルース系の音楽にのめりこむことができたのは、ひとえにレッドのおかげさ。
Q:自分の曲を書き始めたのは、その頃?
J:うん。でも、そんなにたくさん書いてたわけはないよ。初期の作品の「バッド・ラック・アンド・トラブル」や「ミーン・タウン・ブルース」なんかは「オースティン・テキサス」に収録した。「バッド・ラック・アンド・トラブル」ではナショナル製のリゾネイター・ギターとマンドリン、それにハーモニカをプレイしている。ハーモニカは「バック・ドア・フレンド」でもプレイしてるよ。当時オリジナル曲もやってたけどそれほど多くはなかった。当時はおもに、ブルースを独自なアレンジで演奏してたね。「ガット・ラヴ・イフ・ユー・ウォント・イット」、「リトル・スクール・ガール」とかさ。
Q:初期のレコードでは、ギターとベースの複雑なアレンジをフィーチャーしてますよね。特に「ミーン・タウン・ブルース」、「アイム・ユアーズ・アンド・アイム・ハーズ」、それに「リトル・スクール・ガール」のアレンジなどが顕著だと思います。こういった作品をリリースする時、バンドとしては何か新しいことをしてるという実感はありましたか?
J:あるにはあったけど、それほど意識してなかったな。今言った曲は、どちらかというと自然に沸き上がってきたんだ。「ファースト・ライフ・ライダー」、「アイム・ユアーズ・アンド・アイム・ハーズ」なんかはアルバムのレコーディング中に思いついてアレンジしたんだよ。
Q:68年にロック界はジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスやクリームに代表される実力派トリオ・バンドの出現によって黄金期を迎えました。あなたがブレイクしたのもトリオでしたが、今言ったようなバンドの成功が、あなたの音楽の方向性にも影響したのでしょうか?
J:確かにそれはあったね。ヘンドリックスの「マニック・ディスプレッション」や「ヘイ・ジョー」なんかも実際に演奏してたし。それで音楽性が変わったわけじゃないけど、やる気が出たのは間違いない。彼らがブルースでビッグになれるんだから俺たちだって、と思った。ヘンドリックスとクリームがいたからこそ、レッドも確信を持って自分たち流にやろうといえたんだ。
Q:ロック界の急成長による恩恵はありました?
J:まあね。でも、君が想像してる感じとは違うんじゃないかな。相変わらずひもじい思いをしながら微々たる稼ぎで暮らしていたよ。そうするうちに、チャンスがやってきた。「ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ・ウィズ・エリック・クラプトン」をプロデュースしたマイク・ヴァーノンとイギリスで契約を結ぶことができたんだ。そもそもの発端は、アメリカでレコード会社に相手にされなかったもんだから、まぁ、イギリスにでも遊びに行ってみるかってことになってね。ついでに向こうの音楽業界の様子を見て、できれば契約ができたらいいなって感じさ。当時のイギリスではブルース指向の音楽がアメリカよりも溢れてたし。ところが、あっちじゃまったく演奏させてもらえなかった。ギターを持ってるってだけで入国もできないところだったんだぜ!税関で止められて、ギターで仕事するつもりかって聞かれたんで、違うって答えた。そしたら、ギターで稼いでるような話を耳にしたら、ただじゃおかないぞ、だって!結局、数週間の滞在中に、マイク・ヴァーノンと契約を交わして、詳細も決まらないうちにそそくさとアメリカに帰ってきたよ。
Q:そして、ロック界始まって以来最悪の出来事のひとつが起きる。68年、ローリング・ストーン誌があなたをこんな風に書き立てています。”ヘナヘナの長髪を垂らした斜視の白子が、かつてないほどの力のこもった流れるブルースを奏でる”…でも、この記事がきっかけで(ニューヨークの興行主兼クラブ・オーナーの)スティーヴ・ポールがテキサスにいるあなたを見つけ出して、ニューヨークへ呼び、レコード会社との契約を当時としては記録的な60万ドルの手付金とともに交わすよう導いたわけですよね?
J:俺を見つけ出したスティーヴが、ニューヨークで契約してくれって言うんだ。その時点では、彼は俺の将来にまるで当てがなかったのに、だ。ところが、すぐさまいろんなレーベルと交渉に入った。RCAとCBSは入札競争さ。結局、CBSと契約した。よく”史上最高のボーナス契約”なんていわれるけど、割の良さはどうかな。たしかに金額は大きかったけど、期間が長くて、レコードの枚数も多かったから。確か、年に2枚のレコードを年以上出し続けるって内容だった。
Q:CBSでリリースした最初の2枚「ジョニー・ウィンター」と「セカンド・ウィンター」は、ともにナッシュヴィルでレコーディングしていますね。
J:当時はCBSと契約すればCBSのスタジオを使うことになってたんだ。ところが、ニューヨークやロサンゼルスのスタジオは設備がイマイチだった。その点ナッシュヴィルは良かったから。ただ、あの頃のエンジニアって、俺が求めるサウンドをつかみ切れてなかったんだよね。結局信頼できる人がいなくて、2枚とも自分でプロデュースしたよ。今考えると誰かに手伝ってもらった方が、もっと良いサウンドを出せたかもな。俺がわかっていなかったから。いかにも素人くさいだろ?まぁ、全体的にはなかなかの出来だと思うけど。
Q:最初の2枚ではどんなギターを使いました?
J:1stではフェンダーのムスタング、それとスライド用にフェンダー・エレクトリックXIIに弦を6本だけ張ったもの。2ndでは、チェリー・レッドのレス・ポール・スペシャルをつかった。とても気に入ってたギターなんだけど、ちょっと俺にはベースが効きすぎだったかな。
Q:2ndには、パーシー・メイフィールドのカバー曲「暗い苦しみの思い出」がありますね。この曲は以前から、よくプレイしていたんですか?
J:全然。アルバム用のにわか仕立てさ。ギターとアンプは何だっけなぁ。きっとゴールド・トップのレス・ポールだよ。しばらく使ってたし。あの頃って、録音技術をいろいろ実験してたんだ。たしかあの曲では、変わった音を出してみたくて、ギターアンプを階段の吹き抜けに置いたな。
Q:ギターのトーンが随分歪んでますよね。ディストーションペダルを使ったんですか?
J:いや、それほど使ったことがないよ。「リヴィン・イン・ザ・ブルース」なんかでもアンプのボリュームを思いっきり上げてるだけだ。ペダルなんて「セカンド・ウィンター」でワウ・ペダルを少し使ったのと、70年代からMXRフェイズ90を使い始めたぐらいだ。最近は、そこに置いてあるブルーのコーラス(ボスのCE2)を使ってる。エフェクターを使わない方が音をコントロールできるような気がするんだ。
Q:また、同作ではボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」と「アイ・ラヴ・エヴリバディ」で燃えるようなスライド・ギターがフィーチャーされてますね。2本のスライド・ギターが交互に呼応しているのが素晴らしいと思いました。
J:実はあれ、1台のギターでやってるんだ。音をわざと交互にパンして2台が呼応しているようにした。ちょうど「ホエン・ユー・ガッタ・グッド・フレンド」のエレクトリック・バージョンって感じだ。その曲では、ナショナルのリゾネイター・ギターを左右にパンしてる。
Q:60年代というのは、ファッションに敏感な若者が旧来の殻を破って”個性”を打ち出そうとした時代でした。あなたの場合、もともとアルビノであるということで、意図しなくても人と違って見られたと思います。その点で不都合なことはありましたか?
J:あったよ。俺のことが気に入らない奴もいたさ。何なのか知らず、理解してくれなかった。中には怖がったり、怒ったりする奴もいた。ほとんどの人がアルビノなんて見たこともなかったから。みんなと違ってるというだけで随分と嫌な目にあったよ。
Q:それは幼い時からのことですか?
J:うん。学校でよく喧嘩したよ。
Q:トミー・シャノンによると、あなたは誰にも文句を言わせないそうですが、ギターで人の頭を殴ったこともあるって本当ですか?
J:そうなんだよ!(笑)それも一度じゃない!トミーが言ってるのは、レス・ポールのネックをつかんで振り回した時だ。俺たちがいなくなるまで、そいつは気絶してたよ。
Q:2ndのあとは、トミーやレッドとステージに立つのをやめて、新たにジョニー・ウィンター・アンドとして再スタートしました。あのグループは実質上のマッコイズで、ギタリストにリック・デリンジャーをフィーチャーしたバンドでした。その転換の理由は?
J:70年代の初めというのは音楽が大きく変わった時だった。ブルースはすっかり下火。みんな60年代末にブルースを聴きすぎて飽きちゃったんだ。スティーヴ・ポールにも言われたよ。他の音楽をやれって。このままブルースを続けてたら、落ちぶれるってさ!(笑)一理あるなと思って、ロック指向の音楽をやることにしたんだ。そしてその頃、スティーヴの家にはマッコイズが住んでいた。スティーヴも俺も、ちょうどニューヨーク州北部でお互い近くに家を借りてたんだ。向こうはフロントマンを求めてる。こっちはバンドを探してる。ニーズがピタリと合ったわけだ。トミーとレッドはブルースなら最高だけど、ロックン・ロールとなると少し畑が違ってた。そんなこんなで、方向転換の時だと感じていたところに、たまたまマッコイズがいたってわけさ。
Q:この時まで他のギタリストと組んだことはほとんどなかったと思うんですが、リック・デリンジャーとはどうでした?
J:リックは最高だったよ。リズム・ギターは素晴らしいし、俺のスタイルにしっくりくる曲を作ってくれた。おまけにリード・ギタリストとしてもピカイチだ。一緒に作ったツイン・ギターの曲は、かなり良かったんじゃないかな。
Q:「ロックンロール・フーチー・クー」などのビシッと決まったツイン・ギターのアレンジは、当時かなり革新的でしたよね。
J:けっこう良かっただろ。「ロックンロール・フーチー・クー」はマッコイズが独自に練習していた曲で、俺が気に入って一緒にやることにした。俺はアルバム「ジョニーウィンター・アンド」がすごく好きなんだけど、あれはCBSでリリースした中で売上が最悪だったんだ。不思議なもんさ。一方、「ジョニー・ウィンター・アンド/ライヴ」は、CBS契約中で一番売れたレコードなのに、なぜか俺はスタジオ盤の方が好きなんだ。
Q:「~アンド」では、どんなギターを使いました?
J:確かエピフォンだよ。ソリッド・ボディ、ダブル・カッタウェイで、P-90ピックアップを搭載してるやつ。型名はまったく覚えてないな。「~アンド/ライヴ」ではスタンダードのレス・ポール・ゴールド・トップを使用した。
Q:「~アンド/ライヴ」のあとは、ドラッグのリハビリに入りましたね。
J:ヘロインをやめるために入院したんだ。1年ぐらい休業して、次に人前に出たのはツアーの時だった(※)。
Q:リハビリを終えて、何か目標はありましたか?
J:ロックン・ロール風なブルースをやりたかったな。マッコイズの曲でまだレコーディングしてないのがいくつかあったし。他にも「キャント・ユー・フィール・イット」や「オール・トア・ダウン」を収録したかったんだ。
Q:2曲とも73年のカムバック・アルバム「スティル・アライヴ・アンド・ウェル」に入っていますね。あれはロック史上で最もパワフルなレコードのひとつだと思います。
J:俺もすごく気に入ってるよ。俺のロックン・ロール・アルバムではベストの出来なんじゃないかな。
Q:「スティル・アライヴ・アンド・ウェル」ではローリング・ストンズの曲がふたつフィーチャーされていますね。「シルヴァー・トレイン」と「レット・イット・ブリード」の2曲。「ローリング・ストーンズ・レコーディング・セッション」の記述によると、ミック・ジャガーとキース・リチャーズは「シルヴァー・トレイン」をあなたのために書き下ろしたそうですが?
J:いや、「シルヴァー・トレイン」はもともと出来上がっていた曲で、たまたま俺にくれただけだと思う。現にストーンズは、こっちより先にレコーディングしてるはずだ。リリースするのがあとになっただけさ。もちろん初めて聴いた時からすごい曲だと思った。もう、やるしかないって。
Q:「スティル・アライヴ・アンド・ウェル」で初めてファイアーバードを使いましたね。いわば、ジミ・ヘンドリックスにとってのストラトキャスターを同じように、それ以来あのギターはあなたのトレードマークとなりました。
J:ファイアーバードは、いろんなギターの良いところがすべて集まってるんだ。弾き心地はギブソンのようでいて、音は他のギブソンに比べるとフェンダーに近い。トレブルが強めなんだ。俺はハムバッキング・ピックアップの音があまり好きじゃないんだけど、ファイアーバードが搭載してるミニ・ハムバッカーのサウンドは抜群だ。でも最近では、ファイアーバードはスライド用にしか使ってないな。今のメインはテキサスのマイク・アールワインが作っているレイザーだ。
Q:レイザーに変えたのは、アリゲーター・レーベルに移って初めてのアルバム「Guitar Slinger」(84年)の頃でしたよね。ちょうどチューニングを1音下げるようになった頃でもある。
J:そうだ、アルバムの半分くらいがファイアーバードで、残りはピックアップがひとつしかない黒いレイザーだった。そのあと2ピックアップの白いレイザーを手に入れて、今はそれをメインにしてる。1音下げるようになった経緯が面白くてさ。1本目の黒いレイザーはツアー専用にするつもりでいたんだ。ところが、プラグ・インしてみたら、あまりにもサウンドとフィーリングが心地よくて、その日のギグで使いたくなっちゃった!1弦が010だったんで、俺は普段009に慣れてたからギグ用に1音思い切って下げたんだ。その時だけのつもりだったのにね。結局今もそのままさ(笑)1音下げを始めて、もう14年になるよ。弦も切れにくいしね。
Q:77年には、マディー・ウォーターズのアルバム「ハード・アゲイン」をプロデュースしてグラミー賞を獲得しました。これをきっかけにマディーとのつきあいが始まり、さらに3枚のアルバムをプロデュースすることになります。それが「アイム・レディ」(78年)、「マディー”ミシッシッピ”ウォーターズ・ライヴ」(79年)、「キング・ビー」(81年)ですね。
J:マディーのマネージャーが76年にプロデュースの話を持ちかけてきたんだ。アルバムはすべてブルー・スカイ・レーベルから出した。オーナーが俺のマネージャー、スティーヴ・ポールでさ。マディーと仕事をするのはむちゃくちゃ楽しかったな。プレッシャーはすごくあったけどね。だって”また白人のブルース屋が、黒人のブルースマンを利用してる”なんて思われたらいやじゃん。
Q:本気でそんなことを心配していました?
J:そりゃね。でも、当時はロックン・ロールをやりすぎたんで、ブルース畑に戻りたくてしょうがなかったんだ。それがマディーと実際にレコードを作ってみて自信が沸いてきた。またブルース・プレイヤーでやっていけそうだってね。結局、何もかもうまくいって、もうすっかりその気さ。アルバムは大好評で、4枚中3枚がグラミー賞を獲得した。まさかって感じだったよ。
Q:マディーもあの頃、あなたを褒めちぎってましたよね。本当の息子だなんて言って。
J:そんなことも言ってたね!(笑)あれは最高に気分良かったよ。
Q:マディーとの仕事は当時、あなた自身のレコードにも影響したんじゃないですか?「ナッシン・バット・ザ・ブルース」(77年)、「ホワイト、ホット&ブルー」(78年)なんかどうでしょう?
J:たしかにその2枚では、よりストレートなブルースをやってたね。マディーのおかげでやる気が出たよ。
Q:マディーとやっていた頃にミュージックマンのアンプに替えましたね。現在も使ってるようですが。
J:ミュージックマンは、マディー・バンドのギター・プレイヤーであるボブ・マーゴリンが使っていて知ったんだ。ボブのは10インチのスピーカーがふたつあるやつだった。その音がすごく良くて、10インチが4つついてるミュージックマンのスーパー・リバーブ・タイプを使うことにした。ミュージックマンはレオ・フェンダーが運営してたから、フェンダーのアンプにも近いものがあったんだ。
Q:ブルー・スカイ・レーベルで最後に作ったレコードが80年の「レイジン・ケイン」でした。その後、アリゲーター・レコードで「Guitar Slinger」を作るまで4年間のブランクがあったのはなぜでしょうか?
J:あの4年間は、たまたまレコードを作る気分になれなかったんだよね。体調が悪かったのかな。まあ、忘れちゃったけどさ。やる気がでるまで時間がかかったのは確かだな。
Q:アリゲーターに移って2枚目の「Serious Business」(85年)では「Master Mechanic」や「Unseen Eyes」で凄まじいギター・プレイを披露していますね。
J:あのアルバムでのプレイには大満足だね。ただ、ちょっと問題があった。というのはブルース・イグロア(アリゲーターのチーフ)とサウンドのことでやたらと揉めたんだ。結局ふたりとも最終的に納得していないと思うよ。俺から見るとトレブルが強すぎて、ベースの効きが足りない。なんだか俺には薄っぺらく感じるね。
Q:アリゲーターでのラスト盤が86年の「3rd
Degree」。3枚中で最高のサウンドですね?
J:俺もそう思う。ブルースが好きにさせてくれたからだよ(笑)。あのアルバムで一番良かったのは、またトミーやレッドと一緒に仕事が出来たこと。ブルースのアイディアで実現したんだ。トミーがスティーヴィー(レイ・ヴォーン)とやって成功したんで、ブルースはそれに便乗したかったんだ。そういう魂胆は絶対に嫌なんだけど、トミーとはプレイしたかった。前に長いこと一緒だったからね。トミーを入れるなら、レッドにも参加してもらおうって言ったんだ。素晴らしい演奏だったな。
Q:現在のミュージック・シーンに、あなたの音楽はどうフィットしていると感じますか?
J:フィットしてないだろ?そもそも、ミュージック・シーンというものに収まったことなんてないぜ。俺は単に、やりたいようにブルースをプレイしているだけさ。自分の音楽的ルーツであるブルースからは離れたくないから。
Q:でも、あなたの音楽が多くのミュージシャン、それも同時代の大物アーティストたちに影響を与えてきたのは事実ですよね。その典型的な例が、93年の歴史的なステージ、ボブ・ディラン30周年記念コンサートでの「追憶のハイウェイ61」です。オーディエンスのみならず出演アーティストだって、あなたが会場を燃やし尽くしてステージを掌握したと感じたでしょう。
J:あのショーは俺のキャリアのハイライトだったよ。あんなにいろんな人とプレイできるなんてゾクゾクするほど名誉なことだ。昔からディランの大ファンだったし。
Q:そして、忘れてはならないライブ・パフォーマンスがもうひとつ。90年にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたジョン・リー・フッカーへのトリビュートです。スターがずらりと勢揃いしたこのイベントが開催されたのは、スティーヴィー・レイ・ヴォーンの死からわずか数週間のことで、そのことが皆の心に重くのしかかっていました。あなたがステージに登場すると総立ちの喝采が沸き起こりましたね。
J:あれは心底ブッ飛んだね。ただ、あの時はすごく具合が悪かったんだ。神経症がひどくてさ。どうやってショーを終えたかも覚えてない。もう、めちゃくちゃだった。
Q:神経症は長いんですか?
J:そうだね。昔からだ。ジョン・リー・フッカーのショーは、今思えば素晴らしいコンサートだったから参加できてとても嬉しいよ。でも出演する前は、できるかわからないってみんなに言ってた。ただただ、死にたくてさ。気分は最悪だったよ。
Q:ところで、自分のアルバムの中で特に好きなものといえば?
J:「ジョニー・ウィンター」が一番好きだね。頭の中にあったアイディアを初めて形にできたから。「オースティン・テキサス」も全体的にうまくできているな。あとは「ナッシン・バット・ザ・ブルース」。マディーのバンドと一緒にできたしね。
Q:最近は頻繁にライブをやっているんですか?
J:2、3ヶ月まとめてツアーをしている。1週間に何日かずつステージに立って。この間は、数週間かけてイタリア、ドイツ、アムステルダムを回ったよ。適当に移動はするけど、本当は今住んでるニューヨークのあたりにいたいんだ。プレイするのは大好きだよ。良いオーディエンスの前で演奏することにかなうものはないからね。
- クラレンス・ガーロウ(Clarence Garlow)―1911年生、1986年死去。Johnnyの地元Beaumontで活躍したラジオ局DJ兼ミュージシャン。Johnnyの音楽面での恩師であり、ギターに関して彼にいろいろ手ほどきをした。
- チャビー・チェッカー(Chubby Checker)―1941年生、1960年代前半のツイスト・ブームの立役者「The Twist」などが有名。
- テックス・リッター(Tex Ritter)―1907年生、1973年死去。伝説的カントリー・ミュージックの大スター。