1974年 Billy Altman によるインタビュー記事
Zoo World – The Music Megapaper 1974年5月号より引用
原題は: Much More Than Survival Johnny Winter’s…
ジョニーに流星のように現れてトップを極めたことについて、そしてあまりに早い栄光によってもたらされたプレッシャーについて訊いてみた。
「プレッシャーがあったことさえ気づかなかったのは実に不思議なことだったな。たいていのグループは結成されて、しばらくクラブで演奏し、そしてコンサートで前座を務めるというぐあいに、何が起こっているのか理解する時間があるものだが俺たちにはなかった。クラブからいきなりコンサートのトリを務めるようになってしまい、馬鹿げたことにさほどのプレッシャーも感じていなかったんだ。俺たちは出かけて行って演奏すればそれでOKと考えていたんだ。うまくいかないこともたまにはあった。あんなバカでかい演奏会場については何も知らなかったから、ステージの上でよく聴こえなければサウンドマンを信用するしかない。だけど俺たちにはそのサウンドマンすらいなかったんだ。音がちゃんと聴こえているのか分からず、サウンドマンが何をしているの分かっているのか知らずに、完全に任せていたんだ。だから最悪の仕事しかできないクズどもを2年間雇っていたわけさ。どうしたらよいかも分からなかったんだが、仕事の上ではまあかみ合っていたんだな。友人たちが「音がひどいよ」とか「あいつはボードで寝ていたぜ」とか言うのを聞き、かなりの数のギグをこなした後で俺たちはやっと意見が一致したんだ。だが当時はほんとに無計画なサイケデリックの薬物中毒の時代で、誰もが何が起ころうが流れに身を任せていたから、物事をなすがままにしておくことはさほど難しくはなかったんだ。振り返ってみても、俺はどうやってのけたのか信じがたいな。」
ジョニーに過大な宣伝広告についてどう思うか訊いてみた。
「ああ、人々の注意を自分に向けようと25年間ほど一所懸命やってきたから、そして俺についてあれこれすごいことが書かれ始めたときにもやり過ぎだとは思わなかったんだ。やり過ぎるなんてありえない。俺は準備万端だったんだ!でもどこにいても俺を追っかけまわすくせに、俺と会ったことも俺の音楽を聴いたこともないのだからキツかったな。」
「リアクションはどこへ行っても凄かった。カリフォルニアはちょっとキツくて、気に入ってもらう前に3度は演奏しなくちゃならなかった。当時はアンチ・スパースターの考えがあって、成功する前にフィルモアのオーディション・ナイトで演奏したときはみな熱狂してくれた。でも「スター」になって帰ってきたら、心構えが違っていて、反感を買ったんだ。俺たちはクレイジーな連中を雇っていて、しばらくデッドの仕事をしていた野郎がアンプの壁が必要だと説得したんだ。まさに壁で、ステージの両側に2段積が約20組だぜ。フィルモアは小さな会場なのでドラマーの音すら聴こえないほどうるさかった。災害以外の何物でもないさ。ロニー・マックは小さなアンプ1個持って俺たちの後に出てきて、完璧に打っちゃられたよ。次の日にローディをクビにした。」
「ほんとの意味で受け入れられるまでに2年はかかったが、オータミット・スピナッチ[訳注:ボストンのサイケ・バンド]みたいなビッグ・ジョークにはなりたくなかったから、俺にとってはほんとに重要なことだった。だから成功が遅れたならそうだったよりも一所懸命働こうと考えたんだ。実のところ成功についてはさほど真剣に考えてはいなかったので、俺はラッキーだった。お金が成功のすべてだと考えてはいなかったし、返せそうもないと考えたら金は受け取らなかっただろう。でもレコード会社は大金を投資すれば年がら年中しつこくなんか言ってくるものだ。ヤツらは投資が回収されるのを確実にするためにやたらと宣伝をして俺のレコードの販売を確保しようとするのだと思う。」
60年代後半のブルース・リヴァイヴァルが早い成功に大きく寄与したのだろうと考えていると話したらジョニーも同意した。
「同じことをいまやっても誰も俺たちを聴こうとはしないだろうよ。聴きたいものを聴きたいときに聴きたい場所でというのが重要だったんだ。俺はほんとに成功したかった。俺は50年代前半の作品からR&Bからビッグバンドまで考えうる限りのあらゆる種類のレコードを作製したが、ブルースはほんとに好きな音楽でブルースの演奏で自分のベストが出せると考えていたんだ。」
ジョニーが成功すると、ブルースマンであるとともにロッカーでもあることが明らかになり、レパートリーを広げるにつれて問題が現れて、オリジナルのバンドの解散をもたらした。
「問題はバンドがブルース・バンドで、ロックン・ロールをそんなに上手に演奏できなかったことだ。それがバンドが解散した主たる理由さ。実際クリームやヘンドリクスのバンドのようになることを期待されたんだが、むしろジェイムズ・コットンやマディ・ウォーターズのようだった。ほんとにラウドでエネルギーに満ちていたけど、とてもラフで雑でブルージーで、それが俺たちが望んだやり方だったんだ。望まれていたのはブリティッシュ変種のブルース・スタイルだと思うが、俺たちはもっと生の、カントリー・ブルースに向かっていたんだ。結局ベース・プレーヤーとドラマーは酷評されて去って行った。でも何といわれようともいいブルース・バンドだったと思う。誰も味方してくれないときにいい仕事をするのは難しいよ。」
解散後にジョニーのマネージャーだったスチーヴ・ポールは自分がマネージしていた別のバンドに引き会わせた。マッコイズはバンドとしての末期を迎えていて、キャリアを救ってくれる人やモノを必死に探していたところだった。マッコイズは最後の2枚のアルバムで興味深い音楽を沢山やっていたが世間からは忘れ去られていたので、ポールはニュー・バンドについてのジョニーの期待に応えることができるかもしれないと考えたのだ。
グループは「ジョニー・ウィンター・アンド...」と呼ばれ、ハード・ロックに力点を置いてジョニーの音楽的性格にまったく新たな面をもたらした。彼らのセカンド・アルバム、ライヴ盤によって彼らは演奏面でもトップに立ち、ジョニーの演奏や歌には新たな凄い熱狂が加わった。バンドはひっきりなしにツアーし、休暇の時期がどんどん遠ざかって行くと思われるにつれ、バンドやジョニーは続けるためにドラッグを頼りにするようになった。
「最初に会った時はマッコイズの連中は健康的な若者たちだと思ったが、すぐに完全にイッちゃっていることがわかった。バンドを結成した直後にハドソン川の凍ったところを渡ろうと誘われたんだ。落ちてしまうのではないのかと思ったら案の定落ちてしまった。とても寒かったので這い出した時に流れから湯気が立ったんだ。これを見たボビー・ピーターソン(マッコイズのオルガン・プレーヤー)は俺が神であると思い込んで救いを求めて1週間つきまとい、さらに奴は自分がユダであると考えて首にロープを巻いて歩いたりした。誰も相手をしなかったんで奴は服を着ることも食べることもできなかったんだ。そして遂に首をくくろうとしたがロープが切れ、病院で拘束されてグループを去った。次にリックの弟でドラマーのランディ・Zが1晩に60回ほど倒れ、生死不詳のままグループを去った。一体どうやっていたのか知らないけど、この馬鹿騒ぎの間もリック(デリンジャー)はずっと健康だったんだ。」
「ほんとにツアーばっかりで休みがないという状態になってきて、俺はヘロインを使用し始め、またグループは俺が好きでないティーンエイジャーの女の子向けの方向に進み始めていた。自分の人生が崩壊しているように思えたので、グループを解散して病院に入ったんだ。」
ロックシーンから9ヶ月遠ざかったことによって、ジョニーはあれこれと整理してどんな方向に人生の進路をとりたいのか考えるチャンスが与えられた。
「実際その気になればいつでも出ることができた。拘束のようなことをされていたわけではないんだ。俺としては3ヵ月後にはOKだったんだけど、卒業したかったんだ。自分で『もう出て行っても大丈夫だと思う』と言い出だすのではなくて、もう出ても大丈夫だよと言われたかったんだな。ジュークボックスのようなロックン・ロール・スターであることには本当にうんざりしていたし、それまでのような生活を続けていくのは困難だと思った。ほんとに3年のあいだ休みをとっていなかった。退屈で孤独で、考えうる最も悲惨な状態だった。つねに人にも知らせようとしたんだがうまくいかなかった。俺と他人との間には壁があったんだ。どこかへ行けば、俺にできることはこんにちわと言っていくつかサインするだけだったんだけど、俺にはほんとに恐怖だったな。」
「生き続けていたいと思っていたし、演奏を続けていと思っていたが、生活を変えなければならないとも思っていた。今ではずっと楽になった。エドガーと俺は同じロード・クルーを使っていて、弟が出ているとき俺は家にいて、俺が出るときはその逆だ。今では自分の音楽と自分の私生活を分けることもできるし、それはとても重要なことなんだ。」
ジョニーの「カムバック」はかなりうまく行っていて(「俺はいまでも有象無象のクレイジーなオーディエンスを引きずっているけどね」)、以前よりも多様なの面を打ち出すことができるようになった。
「最初のバンドでは俺はブルースしかしなかったし、人はそれを聴きたがらなかった。そしてかなりハードなロックをやり、それこそが人々が聴きたがったものだった。いまでは俺はどんなことでも少しずつできるし、それが「俺」として受け入れられている。違った領域のものが沢山含まれているから、みんながニュー・アルバム(”Saints And Sinners”、邦題『テキサス・ロックン・ロール』)を気に入ってくれることを願っている。」
訳:東淀川スリム氏